本作は売春防止法の制定時期における浅草にある赤線地帯の「夢の里」で商売を営む女性たちの生き様を描いた作品。よりえ、ゆめこ、やすみ、みっきー、はなえの5名の娼婦とこれからなるであろう少女1名(しずこ)が登場し、うち誰かが本作の主人公と感じさせられるような雰囲気はなく、彼女らの生活を傍観するようなタッチで撮られているように感じた。
 本作を見て印象に残った点は幾つかあった。まず冒頭の不気味さ漂う音楽(オフの音)が頭に残った。これまで溝口の作品を何作か見たことはあるが、大概はインの音、フレーム外の音を多用する作品が多く、オフの音は冒頭のクレジット以外エンディングでしか使われない事が多いように思う(1936年『浪華エレジー』、1936年『祇園の姉妹』、1939年『残菊物語』)。しかし、本作の場合、冒頭で使われているオフの音としての音楽は本編に数回差し込まれている。具体的には、①1:41(赤線地帯の朝)、②15:06(ゆめこの息子が「夢の里」を尋ねる)、③16:48(ゆめこの息子が母親の客引き行為を目撃する)、④19:00(はなえがゆめと別れ亭主に会いにいく)、⑤38:01(ゆめこが田舎へ行き息子を捜す)、⑥41:13(はなえが家へ向かい自殺現場に出くわす)、⑦1:04:55(ゆめこが工場の近くで息子と会う)、⑧1:05:56(息子がゆめこから逃げる)、⑨1:16:40(はなえの亭主が「夢の里」へ尋ねる)、⑩1:22:16(しずこが初めての客引きを試みる)の10カ所。差し込まれている場面からみれば、どれも悲劇的なことが起こる前兆として使われていると見て取れる。
 撮影技法においての特徴は、ディープフォーカスを多く用いている、奥行き感のある道と街と廊下などを効果的に映している。それに加え、長回しと人物から距離を置いたロングショットとを同時に用いることが多く(1:41から10数秒間の街の風景、3:50から20数秒間「夢の里」の中庭付近の廊下、1:05:50から20秒程度遠くへ逃げる息子と追いかけるゆめこ、1:12:16から30秒程度のやすみが廊下で客に襲撃され気絶する場面などなど)、「傍観感」「リアリティ」「ドキュメンタリーチック」な雰囲気を醸し出しているように思った。
 謎に残ったこともあった。「夢の里」の一階のバーらしき空間に置いている小振りの裸体の女性像が映画のなかで数回ちらほらと見かけられる。①2:31老婆と像の胸元から脚の先まで、②16:57よりえと男性客と像の側面全体、③17:15みっきーと男性客と像の脚、④39:58息子の勤務先へ電話するゆめと像の脚、⑤1:00:15老婆と像の正面全身、⑥1:00:32像の全身が息子と電話するゆめこにほぼ隠され頭部の一部しか映らない、⑦1:00:50電話中のゆめこと像の全身、⑧1:06:41食事するみっきーとよりえとはなえと像の全身。計8回。以上のように単体で映されることもあるが、多くの場合は、像の身体の一部と作中の人物の顔と同時に画面に収められる事が多い。男性と映されることもあれば、女性と共に映し出される事もある。裸体は性的な意味を含んでいるのではないかというのは容易に想像つくことだが、かの像自体には全く猥褻な感じは無かったという事も踏まえて、性的な意味だけには停まらないのではないだろうか。ほかにはどんな意味が含まれているのだろうか。古今のヌード像は一般的には肉体美への賛美、生命への賛美という意味で受け取られるとすれば、裸体像は娼婦たちの「儚い美」、「生命の平等」を表現していたのかも知れないと思った。ほかには興味深いセリフもたくさんあったが、ここでは割愛する事にした。
 トータルで言えば、本作は写実的で、画面の細部、背景の音、至る所まで配慮を配った良心的で丁寧な力作だと感じた。

赤线地带赤線地帯(1956)

又名:Akasen chitai / Street of Shame

上映日期:1956-03-18(日本)片长:87分钟

主演:若尾文子 Ayako Wakao/京町子 Machiko Kyô/木暮实千代 Michiyo Kogure/三益爱子 Aiko Mimasu/菅原谦二 Kenji Sugawara/进藤英太郎 Eitarô Shindô/田中春男 Haruo Tanaka/泽村贞子 Sadako Sawamura

导演:沟口健二 Kenji Mizoguchi编剧:成泽昌茂