娼婦は自分が体を売りたいために体を売るわけではない。仕方ないため、売春しているのだ。皆、各自の苦しみがあるのだ。性はもう愛情の交換ではなく、財貨サーヴィスの交換になったのだ。夢の里の旦那さんに借金をして、体を売って、自分の得たい物をとるのだ。「売春禁止法」を聞いたとき、娼婦たちも賛成した。しかし、体を売らないなら、どうやって生きていけるだろう?
いい相手がいるよりえにとって、お嫁に行けばきっと幸せな生活が送れるだろう。でも結局戻ってしまったのは、結婚しても幸せにならないからだ。もう伝統的で、旦那さんに一意専心に奉仕するようないい奥さんになれない。やはり、自由で、自分の力で生きていくのがいい。でも、本当は自分の力ではなく、自分の体なのだ。だから、よりえは伝統的な女でもなく、新しい時代の女の人でもない。転換期にもがいている女の人の典型だと考えられている。
ゆめこは娼婦であり、苦労しているお母さんでもあるのだ。苦労して、一人この息子を育てたゆめこは、息子が尋ねてきたとき、娼婦の姿をしていたため、息子に会わなかったのだ。平日は素朴なゆめこは、客を招くときだけ、派手になり、卑しく行動しているのだ。そのような女の人は、「お母さん」の像にどうにも繋がらない、とゆめこも息子の修一もそう考えている。しかし、その時代で、夫に死なれた女の人は、子供を育てるため、ほかの手段はないのだ。ゆめこは、息子が覚えているお母さんがそんなに図々しい客を招く人ではないと思わせたいから、息子に会わなかったのだ。ゆめこは、いいお母さんであると同時に、お金を稼げるお母さんでありたいが、実は、その二つの像は矛盾なのだ。しかし、社会背景を変えれば、その二つの像は必ず矛盾であるとは限らない。
はなえも、娼婦であると同時に、苦労している奥さん、お母さんである。夫が結核になり、勤めている学校で首なってしまった。そのとき、社会保障制度はほとんどなかったのだろう。病気になる人を捨てることは、恐らく学校も医療費を出す余裕もないだろう。夫が首になると、生活の頼りである給料はなくなり、しかも医療費も掛かるし、子育ても金が必要だし、はなえはどうすればいいの?やはり売春しかなかっただろう。ゆめこが息子に捨てられたことを見て、自分も子供が居るから、心配していても、夫が売春する女が嫌がっても(よりえが嫁に行く前に、夫が話したことから見える)、やむを得なかった。
やすみは売春を手段として、金をたくさん入手し、一刻も早くこの娼婦である自分から脱出したいと思っている。よりえも娼婦をやるのが嫌だが、休みはよりえと違う。よりえは嫌でも、この生活から逃げられない。それは、もうそんな生活に慣れるのだ。やすみは微笑みしながら、男を騙しているのは、自分が絶対この娼婦だけではなくと思い、男に身請けを頼らず、自分の力で出世(出世というのは適すかどうか、ちょっと自信がない)したいと思っていたからだ。到頭自分の店もできたが、やすみは本当に幸せかどうか、わからない。でも、やすみこそ、新しい時代に向かい、旧時代の女の像から逃げ出したのだと考えられている。
ミッキーはいかにも欲望の象徴だと思われる。実家は貧しくないから、売春をするのは金のためではなく、お父さんに愛されていなかったからだ。道徳的拘束がない。(娼婦といっても、仲間は皆それぞれの苦衷があるから商売やり、道徳的に何か守るために商売をやるのだ。ミッキーはそうではない。)新鮮さ、刺激を求め、ほかの事はどうでもいい。ミッキーは現代の人間像の象徴だと考えている。ミッキーは、ちゃんとした生活を送ることもできないから、売春は防止されても、困ることもないだろう。きっとどこかでいい加減で生活すればいいと考えている。
映画の最後シーンに、「売春禁止法」が出てきたものの、しずこという年下の生娘も娼婦になったのは、国にいるお母さんが金がほしいからだ。そんな古い話、どうして、戦後の日本にまたあるの?その時の日本は、新旧交替の時代であり、いろいろな悲しいこともある日本なのだ。

赤线地带赤線地帯(1956)

又名:Akasen chitai / Street of Shame

上映日期:1956-03-18(日本)片长:87分钟

主演:若尾文子 Ayako Wakao/京町子 Machiko Kyô/木暮实千代 Michiyo Kogure/三益爱子 Aiko Mimasu/菅原谦二 Kenji Sugawara/进藤英太郎 Eitarô Shindô/田中春男 Haruo Tanaka/泽村贞子 Sadako Sawamura

导演:沟口健二 Kenji Mizoguchi编剧:成泽昌茂